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●いきなり校正に突入しちゃったので
blogを書いているヒマがない。
6月9日の演奏会の話なんで、
なんとか旬のうちにアップを
試みんと欲す!
●というわけで、浜松まで行って
きました~(*^▽^*)
会場はアクトシティー中ホール。
ちょっと前に、ここでメサイアをやったんですが、本番の日って、客席やステージの雰囲気を味わってるヒマがない。この日は、ゆったり前から三番目の指揮者後ろに陣取り、アンサンブルメンバーのI東くんの熱演を堪能しました。
つーか、来てくれなきゃイヤだ~(ToT)と、アンサンブルメンバーにチケットを売りつけていったんだよな~………。
●お久しぶり! の方々にご挨拶
切符モギリのところで、元団長(今はお仕事の都合でお休み中。浜松チェンバーだけやってらっしゃるそうな)のU海さんに遭遇。
か~なり昔、くどき落として
当時の静響合唱団演奏会にトラで出ていただいたことがありました。
とってもふくよかな響きのバスさんです。
休憩時間には、元静響・現名称ひびきのA野先生にもお目にかかりました。
ちょっと体調を崩され、1ヶ月ほど入院された、と聞いていたので心配してたんですが、また元気に復帰して振ってらっしゃいます。
今年は高田三郎イヤーなので、年末に「水のいのち」のオケ版とかやられるようですが、先日市の芸術祭で「心の四季」をやったとか。
「真昼の星」がどうもね、、、、
みたいなお話でぇ、私も、大好きな曲ですが、うまくまとまり切らなかったような~(ToT)
お、お疲れ様です!
お身体に気をつけて下さい~!
●ステキな曲を聴いた!
プログラムは、
①ポーランドの合唱曲
②林光編曲の
男声合唱による「日本叙情歌曲集」
③立原道造の詩に松下耕さんが曲をつけられた
女声合唱とピアノのための「さふらん」
④矢澤 宰作詞 荻原英彦作曲
「光る砂漠」
の四部構成。それぞれとっても楽しめました。「暗譜ができにゃい(ToT)」とさけんいたI東くん、全ステージしっかり暗譜で、堂々と歌ってました。えらい、えらい。
で、それぞれ名曲佳曲ばかりだったのですが、
①ステージの、一番最初の曲が
すごく気に入りました~(*^▽^*)
ポーランドの作曲家ウカシェフスキの宗教曲(ラテン語)で、
Nunc Dimittis(今こそ主よ、我を去らせたまえ)というの。
内容は、ルカによる福音書第2章29-32のシメオンの賛歌。
まだ幼子のイエスに、神様の祝福をいただくために、エルサレムへ上ったマリアとヨセフは、神殿でシメオンという心正しい老人に出会います。この人は、主が遣わすメシアに会うまでは、決して死ぬことはない、と聖霊からお告げを受けていました。
神殿で赤ん坊のイエスを見たシメオンさんは、この子こそが約束されたメシアであると分かり、イエスを腕に抱きかかえ、神に賛美を捧げます。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり このしもべ(シメオン自身のこと)を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人をてらす啓示の光、
あなたの民イスラエルのほまれです」
で、この部分を曲にしたものが、
Nunc Dimittis。
4人のソリストがユニゾンでDomineと先唱を静かに繰り返し、合唱がシメオンの言葉を歌う、という形式。
穏やかな光が場内に満ちるようでした。
●こんなに大量のテノール、普通いないよ?!
毎年合唱コンクールでガンバっている団体だけに、発声も美しいし、音程感覚も素晴らしい。3ステの松下耕の曲なんか、とんでもなく難しい音程なんだけど、軽々と仕上げていて、伸びやかでとてもステキでしたー。ソプラノなんか、名手だらけですねー。
で、テノールがまた、ものすごく表現力があって、うまいねぇー。なんか、テノールばっかり聴いちゃうなー。
と思って、ふと団員名簿見たら、
テノールが、17人もいる!
ソプラノ 16
アルト 12
テノール 17
バス 11
という編成。うーん、バスがテノールより人数多い方が、バランスとれるんじゃ?!
おまけに、かなり歌える方々ばっかりなんで、やたら鳴る、鳴る!
「光る砂漠」なんか、盛り上がってくると、他を圧してテノールが鳴り響く!
いや、ものすごく柔らかい、コントロールされた響きで、ウルサく聞こえることは全くないんだけど、バスが一生懸命倍音鳴らしてるんだけど、ヤッパリちょっとテノールの音ばかり聞こえてしまう~(ToT)アルトさんも悪くないんだけど、どうもテノールにかき消されているような………。
パート相互の音量バランスがとれると、最高だなぁ。
ともあれ、全ステージ、楽しませていただきました。
この演奏会終わると、コンクール準備に入るそうですから、またまた大忙しの、暑い熱い夏をお迎えになるのでしょうね。ぐわんばって下さい~!
blogを書いているヒマがない。
6月9日の演奏会の話なんで、
なんとか旬のうちにアップを
試みんと欲す!
●というわけで、浜松まで行って
きました~(*^▽^*)
会場はアクトシティー中ホール。
ちょっと前に、ここでメサイアをやったんですが、本番の日って、客席やステージの雰囲気を味わってるヒマがない。この日は、ゆったり前から三番目の指揮者後ろに陣取り、アンサンブルメンバーのI東くんの熱演を堪能しました。
つーか、来てくれなきゃイヤだ~(ToT)と、アンサンブルメンバーにチケットを売りつけていったんだよな~………。
●お久しぶり! の方々にご挨拶
切符モギリのところで、元団長(今はお仕事の都合でお休み中。浜松チェンバーだけやってらっしゃるそうな)のU海さんに遭遇。
か~なり昔、くどき落として
当時の静響合唱団演奏会にトラで出ていただいたことがありました。
とってもふくよかな響きのバスさんです。
休憩時間には、元静響・現名称ひびきのA野先生にもお目にかかりました。
ちょっと体調を崩され、1ヶ月ほど入院された、と聞いていたので心配してたんですが、また元気に復帰して振ってらっしゃいます。
今年は高田三郎イヤーなので、年末に「水のいのち」のオケ版とかやられるようですが、先日市の芸術祭で「心の四季」をやったとか。
「真昼の星」がどうもね、、、、
みたいなお話でぇ、私も、大好きな曲ですが、うまくまとまり切らなかったような~(ToT)
お、お疲れ様です!
お身体に気をつけて下さい~!
●ステキな曲を聴いた!
プログラムは、
①ポーランドの合唱曲
②林光編曲の
男声合唱による「日本叙情歌曲集」
③立原道造の詩に松下耕さんが曲をつけられた
女声合唱とピアノのための「さふらん」
④矢澤 宰作詞 荻原英彦作曲
「光る砂漠」
の四部構成。それぞれとっても楽しめました。「暗譜ができにゃい(ToT)」とさけんいたI東くん、全ステージしっかり暗譜で、堂々と歌ってました。えらい、えらい。
で、それぞれ名曲佳曲ばかりだったのですが、
①ステージの、一番最初の曲が
すごく気に入りました~(*^▽^*)
ポーランドの作曲家ウカシェフスキの宗教曲(ラテン語)で、
Nunc Dimittis(今こそ主よ、我を去らせたまえ)というの。
内容は、ルカによる福音書第2章29-32のシメオンの賛歌。
まだ幼子のイエスに、神様の祝福をいただくために、エルサレムへ上ったマリアとヨセフは、神殿でシメオンという心正しい老人に出会います。この人は、主が遣わすメシアに会うまでは、決して死ぬことはない、と聖霊からお告げを受けていました。
神殿で赤ん坊のイエスを見たシメオンさんは、この子こそが約束されたメシアであると分かり、イエスを腕に抱きかかえ、神に賛美を捧げます。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり このしもべ(シメオン自身のこと)を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人をてらす啓示の光、
あなたの民イスラエルのほまれです」
で、この部分を曲にしたものが、
Nunc Dimittis。
4人のソリストがユニゾンでDomineと先唱を静かに繰り返し、合唱がシメオンの言葉を歌う、という形式。
穏やかな光が場内に満ちるようでした。
●こんなに大量のテノール、普通いないよ?!
毎年合唱コンクールでガンバっている団体だけに、発声も美しいし、音程感覚も素晴らしい。3ステの松下耕の曲なんか、とんでもなく難しい音程なんだけど、軽々と仕上げていて、伸びやかでとてもステキでしたー。ソプラノなんか、名手だらけですねー。
で、テノールがまた、ものすごく表現力があって、うまいねぇー。なんか、テノールばっかり聴いちゃうなー。
と思って、ふと団員名簿見たら、
テノールが、17人もいる!
ソプラノ 16
アルト 12
テノール 17
バス 11
という編成。うーん、バスがテノールより人数多い方が、バランスとれるんじゃ?!
おまけに、かなり歌える方々ばっかりなんで、やたら鳴る、鳴る!
「光る砂漠」なんか、盛り上がってくると、他を圧してテノールが鳴り響く!
いや、ものすごく柔らかい、コントロールされた響きで、ウルサく聞こえることは全くないんだけど、バスが一生懸命倍音鳴らしてるんだけど、ヤッパリちょっとテノールの音ばかり聞こえてしまう~(ToT)アルトさんも悪くないんだけど、どうもテノールにかき消されているような………。
パート相互の音量バランスがとれると、最高だなぁ。
ともあれ、全ステージ、楽しませていただきました。
この演奏会終わると、コンクール準備に入るそうですから、またまた大忙しの、暑い熱い夏をお迎えになるのでしょうね。ぐわんばって下さい~!
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●アイデアを練りながら、なんとなく気に入った本を読む
・・・みたいな状態が続いているんですが、書きたいものが少しずつ
形になっていく段階って、
不思議なことに、「なんとなく、今、コレが
読みたい!」
と本をぺらぺらめくっていくと、ズガーン!
欲しかった映像的イメージとか、言語的イメージが火花を散らして
くれる! 状態に入っちゃったりする。
なんででしょうねー。
その時々で、読みたいモノは漫画であったり、エッセイであったり、
科学読本系であったり、哲学的随想・・・だったり、ともかくあんまり
脈絡はないのです。
なんか、野生のカンだけで本に走っているのですが、
たいていそれらの本の中で、「うん、これこれ!」
みたいなモノに出会うっつーか、出くわす。
これが、なんともうれしい今日この頃なのでした。
●『寅さんとイエス』
という本を昨日読み終えたところです。
タイトルからして、何じゃ、こりゃ~~!
なんですが、これが、とんでもなく
おもしろいエッセイ集だった。
そもそも、これを読もう、と思った発端はですね。
これをお書きになった著者の方を存じ上げているから。
母校の教授で、カトリックの神父さんで、
在学中に講義を受けたんではありませんが、
研究室でお話したり、先生の講演会に伺ったりして、
そのお人柄がだぁい好き♪♪♪
になった方だったこと。
で、うちの母校では、毎年各地の同窓会に、
母校の教授をお招きして、一緒にご飯を食べた後は、
ちゃっかり短い講義をしてもらっちゃう・・・という
ミョーな、つーか、他の大学ではこーゆーの、
ないだろーな、の催しがありまして。
で、今年の静岡支部の同窓会には、
『寅さんとイエス』の著者米田彰男神父さまを
お呼びしちゃうことになっている。
この同窓会お知らせ通知で、最近先生がお出しになった
本は、これですよ~、というお知らせがあった。
で、米田先生ファンである私は、
早速ゲットして、大喜びして読んでおったのでした。
●寅さんから、ピカートへ、北森へ
フーテンの寅さんと、イエスって、
実は似ている、というお話がこの本のテーマ。
何が似ているかってぇと、
どちらも、社会の既成概念を打ち砕くキャラクターであること。
社会的には敗者かもしれない立場なんだけど、
だからって打ちひしがれてない。
それどころか、どんな人にも分け隔てなく接し、
出会う人たちの心の花園にほっと明かりをともしてくれる。
お金も権力もないけど、出会う人一人一人の気持ちを
大切にしてくれる。
だからこそ、寅さんに出会った人も、
イエスに出会った人も、その春風のような存在を
忘れることができない・・・。
とまあ、そういうお話。
寅さん映画を詳しく引用しながら、イエスの話をしてくれる
楽しいエッセイ風の一冊です。
帯のところに、
「人間と世界を温かく包み込む『聖なる無用性』の根源へ」
と書いてありますが、これ、大事。
どういうことなのか、というと、現代生活の中では特に、
物や人は、「役に立つかどうか」「便利かどうか」
そういった基準だけで価値判断されることが多い。
効率化優先社会では、寅さんやイエスのような、
いわば「はみだし者」は「役立たず」「無用の人」
でしかないのです。
けど、その「無用性」こそが、実は人間の根幹に
関わる大切なことなんじゃないの?
●本文の中にも引用されていますが
この「聖なる無用性」という話、実は
マックス・ピカートという人の『沈黙の世界』
の中で語られています。
この本は、言葉と沈黙について、
音楽と沈黙についてなど、
さまざまな角度から「沈黙」って一体何?
なぜそれが存在するの?
それは、私たちにとって大切なことなの?
を哲学的に考える・・・という一冊。
たとえば無用性については、こんな具合です。
「沈黙は今日では『利用価値なき』唯一の現象である。沈黙は、現代の
効用価値の世界にすこしも適合するところがない。沈黙はただ存在している
だけである。それ以外の目的はなにも持っていないように思われる。だから、
人々はそれを搾取することが出来ないのである。
一方、その他のあらゆる偉大なる現象は、効用の世界によって併呑されて
しまった。天と地とのあいだの空間でさえ、飛行機がそこを航行するために利用
される一種の明るい竪穴のようなものでしかない。水や火など、これらの四大
原素も効用価値の世界のなかへ奪い込まれていて、それらがこの効用世界の
一部をなすかぎりにおいてのみ意識されるにすぎない。それらはもはや独自の
存在を持ってはいないのである。」
要するに、沈黙そのものは、現代社会では、全く何の役にも立たないものであり、
人は、沈黙に価値を認めることはあまりありません。どころか、それが存在する
と意識することも、まれ。
じゃあ、沈黙はなくてOKのものなのか?
というと、そうじゃないんだよ、沈黙があるからこそ、
言葉はより深く心に響き、音楽はより心に沁みるんだよ、
見えないし、意識もされないものだけど、そこにこそ
人間にとって大切なものがあるんだよ・・・
と訴えている本なのです。
この『沈黙の世界』という本が、米田先生の著書の中に
引用されているのに、実はものすごく感激したのです。
●若い頃には読めなかった本
『沈黙の世界』、たぶん19歳くらいの頃に、
タイトルに惹かれて買ったんだと思います。
ですが、その当時はどうしても理解できず、
一行読んでは首をひねり、一体何を言いたいのか、わからない、
ついていけない・・・で、結局ほとんど読めなかった。
それでも、何となく捨てられず、ずっと本棚に
置いていました。学生時代に住んでいた部屋を
引き払い、実家に荷物を運んだ時も、やっぱり
何となく捨てられず、持ってきました。
実に30年以上経った今になって、
やっとしっかり読み出せるようになりました。
ともかく一行一行が、含蓄に富み、
どこもかしこも、読み飛ばすことが出来ない。
それに太刀打ちできず、タジタジとなって
若い頃は読めなかったのでしょう。
今やっと読みだして、
一行一行が染み透るのを感じています。
●年月を過ごすことで
やっと何とか、見えてきたものがあるのかなぁ、と思います。
翻ってみると、若い頃は、ほんとに何も考えられてなかったんだなぁ、
と思います。ああ、穴があったら入りたい。
若い頃も、毎日が新しい経験に充たされていたはずなんだけど、
それらから学び取ることが、まったくできていなかったんだよなぁ。
どうも、成長が遅くて遅くて、
我ながら嫌になりますが、
今これらの本に出会い直すことができて
良かったのかもしれませんね。
米田先生の引用されている本は多岐にわたり、
和辻哲郎の「風土」とか、
北森嘉蔵の「神の痛みの神学」とか、
あるいはシモーヌ・ヴェイユだとか、
完璧に理解が及んだ、とはとても言い難いのだけど、
昔から興味をもっていたものが続々現れる。
もちろん、私の神様・遠藤周作の「沈黙」も出てきます。
人の中にある沈黙のダイナミズム、
あるいは神の沈黙のダイナミズム、
そういったものに思いを馳せています。
●で、他のランダム読書のターゲットは
みょーな形態のいきものを紹介するシリーズ
『へんないきもの』(早川いくを著・寺西晃絵)
江戸時代の生活をイラストで解説した
『図解江戸の暮らし事典』(学研 歴史群像シリーズ)
なんてのも見ています。
が、その一方で、『ダ・ヴィンチ・コード』で有名な
ダン・ブラウンの新作"Inferno"もおもしろく読んでたりします。
ああ、あっちこっち乱読。
"Inferno"はこの5月に出たばかりなんで、まだまだ
邦訳は出ないんじゃないかな~と思いますが、
内容は、ダンテの神曲地獄篇と、フィレンツェとヴェニスと
黒死病・・・がモチーフで、前半はフィレンツェが舞台、
後半はヴェニスが舞台で、もーそれだけで、
嬉しくってしょーがない。
ダンテのデスマスクが出てきたり、
ポンテ・ベッキオやら何やら、
去年イタリア旅行で自分が実際に
歩いたところがやたらに出てくるので、
それだけで大いに盛り上がり。
ちなみにポンテ・ベッキオ付近を
散策した時には、こっそり小声で
「わたしのお父さん」(歌詞の中にポンテ・ベッキオが出てくる)
を歌うのを忘れませんでした~♪
●で、乱読・並読をしながら
いろいろアイデアを練って、あれかな、これかな、とか
書いています。
だいぶ前から温めていたアイデアが一本あり、
それを今年は何とか形にしてしまおう!
というのが目標であります。
アイデアを練っていくと、ああしよう、こうしよう、
あ、こっちもおもしろい、おお、この資料は使える、
え、こっちもいいじゃん!
といろいろ自分の頭の中だけで妄想が広がり、
これはこれで楽しいのですが、
いざ、物語に落とし込んでいく時に、
考えたり、調べたりしたことの全てを
ぶち込むわけにはいかず、必ず剪定作業が必要になる。
調べたり、考えたり、練ったりしたことは
みんないとしくて、それらの中で取捨選択するの、
ちょっとつらい時もある。
んだけど、一冊の完成度を考え、
えいや、で大ナタふるって、
要らないものを見極め、テーマを絞り込む。
これが楽しいって言えば楽しいし、
苦しいって言えば苦しい。
けどまあ、ここで使わなかったことは、
また別のところで使えるかもしれない、
書く機会はないかもしれないけど、
ここで悩んだことは、きっとどこかで、
何かの時に自分の役に立つものかもしれない。
いや、役には立たないかもしれないけど、
それに出会ったこと、それを考えた時間こそが、
心の財産になっていくのかもしれない。
そんなことを思ったりします。
このネタも、あのネタも好きだし、
おもしろいと思うんだけど、
だからと言って、全部をぶち込んでも仕方がない。
結局、今、自分が一番書きたいものは何か?
を基準にして、ナタをふるう。
ナタをふるうために、
自分の中にまず、栄養を入れる。
取り入れた栄養の中から、
これ、というものが出てくる。
そーいうことを野生のカンで、
今、やってるらしい。
米田先生の本や、ピカートの本の栄養を
ともかく詰め込んで、なんとか咀嚼したい。
そこから今度は
どんな形で出てくるのか。
どんな形で出せるのか。
ワクワクと同時に、
自分に出来るのか? とドキドキする日が続いている。
・・・みたいな状態が続いているんですが、書きたいものが少しずつ
形になっていく段階って、
不思議なことに、「なんとなく、今、コレが
読みたい!」
と本をぺらぺらめくっていくと、ズガーン!
欲しかった映像的イメージとか、言語的イメージが火花を散らして
くれる! 状態に入っちゃったりする。
なんででしょうねー。
その時々で、読みたいモノは漫画であったり、エッセイであったり、
科学読本系であったり、哲学的随想・・・だったり、ともかくあんまり
脈絡はないのです。
なんか、野生のカンだけで本に走っているのですが、
たいていそれらの本の中で、「うん、これこれ!」
みたいなモノに出会うっつーか、出くわす。
これが、なんともうれしい今日この頃なのでした。
●『寅さんとイエス』
という本を昨日読み終えたところです。
タイトルからして、何じゃ、こりゃ~~!
なんですが、これが、とんでもなく
おもしろいエッセイ集だった。
そもそも、これを読もう、と思った発端はですね。
これをお書きになった著者の方を存じ上げているから。
母校の教授で、カトリックの神父さんで、
在学中に講義を受けたんではありませんが、
研究室でお話したり、先生の講演会に伺ったりして、
そのお人柄がだぁい好き♪♪♪
になった方だったこと。
で、うちの母校では、毎年各地の同窓会に、
母校の教授をお招きして、一緒にご飯を食べた後は、
ちゃっかり短い講義をしてもらっちゃう・・・という
ミョーな、つーか、他の大学ではこーゆーの、
ないだろーな、の催しがありまして。
で、今年の静岡支部の同窓会には、
『寅さんとイエス』の著者米田彰男神父さまを
お呼びしちゃうことになっている。
この同窓会お知らせ通知で、最近先生がお出しになった
本は、これですよ~、というお知らせがあった。
で、米田先生ファンである私は、
早速ゲットして、大喜びして読んでおったのでした。
●寅さんから、ピカートへ、北森へ
フーテンの寅さんと、イエスって、
実は似ている、というお話がこの本のテーマ。
何が似ているかってぇと、
どちらも、社会の既成概念を打ち砕くキャラクターであること。
社会的には敗者かもしれない立場なんだけど、
だからって打ちひしがれてない。
それどころか、どんな人にも分け隔てなく接し、
出会う人たちの心の花園にほっと明かりをともしてくれる。
お金も権力もないけど、出会う人一人一人の気持ちを
大切にしてくれる。
だからこそ、寅さんに出会った人も、
イエスに出会った人も、その春風のような存在を
忘れることができない・・・。
とまあ、そういうお話。
寅さん映画を詳しく引用しながら、イエスの話をしてくれる
楽しいエッセイ風の一冊です。
帯のところに、
「人間と世界を温かく包み込む『聖なる無用性』の根源へ」
と書いてありますが、これ、大事。
どういうことなのか、というと、現代生活の中では特に、
物や人は、「役に立つかどうか」「便利かどうか」
そういった基準だけで価値判断されることが多い。
効率化優先社会では、寅さんやイエスのような、
いわば「はみだし者」は「役立たず」「無用の人」
でしかないのです。
けど、その「無用性」こそが、実は人間の根幹に
関わる大切なことなんじゃないの?
●本文の中にも引用されていますが
この「聖なる無用性」という話、実は
マックス・ピカートという人の『沈黙の世界』
の中で語られています。
この本は、言葉と沈黙について、
音楽と沈黙についてなど、
さまざまな角度から「沈黙」って一体何?
なぜそれが存在するの?
それは、私たちにとって大切なことなの?
を哲学的に考える・・・という一冊。
たとえば無用性については、こんな具合です。
「沈黙は今日では『利用価値なき』唯一の現象である。沈黙は、現代の
効用価値の世界にすこしも適合するところがない。沈黙はただ存在している
だけである。それ以外の目的はなにも持っていないように思われる。だから、
人々はそれを搾取することが出来ないのである。
一方、その他のあらゆる偉大なる現象は、効用の世界によって併呑されて
しまった。天と地とのあいだの空間でさえ、飛行機がそこを航行するために利用
される一種の明るい竪穴のようなものでしかない。水や火など、これらの四大
原素も効用価値の世界のなかへ奪い込まれていて、それらがこの効用世界の
一部をなすかぎりにおいてのみ意識されるにすぎない。それらはもはや独自の
存在を持ってはいないのである。」
要するに、沈黙そのものは、現代社会では、全く何の役にも立たないものであり、
人は、沈黙に価値を認めることはあまりありません。どころか、それが存在する
と意識することも、まれ。
じゃあ、沈黙はなくてOKのものなのか?
というと、そうじゃないんだよ、沈黙があるからこそ、
言葉はより深く心に響き、音楽はより心に沁みるんだよ、
見えないし、意識もされないものだけど、そこにこそ
人間にとって大切なものがあるんだよ・・・
と訴えている本なのです。
この『沈黙の世界』という本が、米田先生の著書の中に
引用されているのに、実はものすごく感激したのです。
●若い頃には読めなかった本
『沈黙の世界』、たぶん19歳くらいの頃に、
タイトルに惹かれて買ったんだと思います。
ですが、その当時はどうしても理解できず、
一行読んでは首をひねり、一体何を言いたいのか、わからない、
ついていけない・・・で、結局ほとんど読めなかった。
それでも、何となく捨てられず、ずっと本棚に
置いていました。学生時代に住んでいた部屋を
引き払い、実家に荷物を運んだ時も、やっぱり
何となく捨てられず、持ってきました。
実に30年以上経った今になって、
やっとしっかり読み出せるようになりました。
ともかく一行一行が、含蓄に富み、
どこもかしこも、読み飛ばすことが出来ない。
それに太刀打ちできず、タジタジとなって
若い頃は読めなかったのでしょう。
今やっと読みだして、
一行一行が染み透るのを感じています。
●年月を過ごすことで
やっと何とか、見えてきたものがあるのかなぁ、と思います。
翻ってみると、若い頃は、ほんとに何も考えられてなかったんだなぁ、
と思います。ああ、穴があったら入りたい。
若い頃も、毎日が新しい経験に充たされていたはずなんだけど、
それらから学び取ることが、まったくできていなかったんだよなぁ。
どうも、成長が遅くて遅くて、
我ながら嫌になりますが、
今これらの本に出会い直すことができて
良かったのかもしれませんね。
米田先生の引用されている本は多岐にわたり、
和辻哲郎の「風土」とか、
北森嘉蔵の「神の痛みの神学」とか、
あるいはシモーヌ・ヴェイユだとか、
完璧に理解が及んだ、とはとても言い難いのだけど、
昔から興味をもっていたものが続々現れる。
もちろん、私の神様・遠藤周作の「沈黙」も出てきます。
人の中にある沈黙のダイナミズム、
あるいは神の沈黙のダイナミズム、
そういったものに思いを馳せています。
●で、他のランダム読書のターゲットは
みょーな形態のいきものを紹介するシリーズ
『へんないきもの』(早川いくを著・寺西晃絵)
江戸時代の生活をイラストで解説した
『図解江戸の暮らし事典』(学研 歴史群像シリーズ)
なんてのも見ています。
が、その一方で、『ダ・ヴィンチ・コード』で有名な
ダン・ブラウンの新作"Inferno"もおもしろく読んでたりします。
ああ、あっちこっち乱読。
"Inferno"はこの5月に出たばかりなんで、まだまだ
邦訳は出ないんじゃないかな~と思いますが、
内容は、ダンテの神曲地獄篇と、フィレンツェとヴェニスと
黒死病・・・がモチーフで、前半はフィレンツェが舞台、
後半はヴェニスが舞台で、もーそれだけで、
嬉しくってしょーがない。
ダンテのデスマスクが出てきたり、
ポンテ・ベッキオやら何やら、
去年イタリア旅行で自分が実際に
歩いたところがやたらに出てくるので、
それだけで大いに盛り上がり。
ちなみにポンテ・ベッキオ付近を
散策した時には、こっそり小声で
「わたしのお父さん」(歌詞の中にポンテ・ベッキオが出てくる)
を歌うのを忘れませんでした~♪
●で、乱読・並読をしながら
いろいろアイデアを練って、あれかな、これかな、とか
書いています。
だいぶ前から温めていたアイデアが一本あり、
それを今年は何とか形にしてしまおう!
というのが目標であります。
アイデアを練っていくと、ああしよう、こうしよう、
あ、こっちもおもしろい、おお、この資料は使える、
え、こっちもいいじゃん!
といろいろ自分の頭の中だけで妄想が広がり、
これはこれで楽しいのですが、
いざ、物語に落とし込んでいく時に、
考えたり、調べたりしたことの全てを
ぶち込むわけにはいかず、必ず剪定作業が必要になる。
調べたり、考えたり、練ったりしたことは
みんないとしくて、それらの中で取捨選択するの、
ちょっとつらい時もある。
んだけど、一冊の完成度を考え、
えいや、で大ナタふるって、
要らないものを見極め、テーマを絞り込む。
これが楽しいって言えば楽しいし、
苦しいって言えば苦しい。
けどまあ、ここで使わなかったことは、
また別のところで使えるかもしれない、
書く機会はないかもしれないけど、
ここで悩んだことは、きっとどこかで、
何かの時に自分の役に立つものかもしれない。
いや、役には立たないかもしれないけど、
それに出会ったこと、それを考えた時間こそが、
心の財産になっていくのかもしれない。
そんなことを思ったりします。
このネタも、あのネタも好きだし、
おもしろいと思うんだけど、
だからと言って、全部をぶち込んでも仕方がない。
結局、今、自分が一番書きたいものは何か?
を基準にして、ナタをふるう。
ナタをふるうために、
自分の中にまず、栄養を入れる。
取り入れた栄養の中から、
これ、というものが出てくる。
そーいうことを野生のカンで、
今、やってるらしい。
米田先生の本や、ピカートの本の栄養を
ともかく詰め込んで、なんとか咀嚼したい。
そこから今度は
どんな形で出てくるのか。
どんな形で出せるのか。
ワクワクと同時に、
自分に出来るのか? とドキドキする日が続いている。
●金土日と、毎日磐田詣で!
こういうスケジュールは滅多にないんですが、
金曜日夜 国際ジョイントコンサートin磐田と銘打ったドイツの少年合唱団capella vocalisとのステージ
土曜日午後 先生宅で練習
日曜日午前 磐田中泉地区福祉協議会定期大会でミニコンサート
という、フルコンサートじゃないけど、ミニコンサート連チャン!
に参加しましたー。
金曜日は会場が竜洋町の公民館で、終演9時10分。車で静岡に戻り、夜中の12時頃帰宅。爆睡。
土曜日は、2時からの練習に間に合うためには、家を11時に出なくちゃいけないんで、早めのお昼でダッシュ。
練習終了後、軽くビール一杯飲まない? というIヶ谷さんの誘惑を振り切って家に帰り、翌日の衣装の準備して、早ねんね。
朝5時起きしてしまい、とりあえず支度して、でも時間が少し余ったので、『寅さんとイエス』っつー本にハマり、一気に三分の一位読んじゃって、慌てて出掛け、9時半集合に駆け込み。
で、10時40分頃に会場入り。一時間強のステージをやり、終了したの、ちょうど昼12時。
中楯さんに車で袋井まで送ってもらい、静岡に出てご飯食べて、静鉄で家に向かった時には、も、半分爆睡状態で~(^◇^;)
夜7時にベッドに入り、朝7時まで寝てました!
で、起きたら、足が筋肉痛。
なもんだから、今日の午後は迎え酒ならぬ迎えウォーキングを少しやりました。(筋肉痛、治った!)
まーその、この体力のない私にしては、頑張った週末でありました。
●バッハ合唱団なので、必ずバッハはやる、と。
今回、金曜日も日曜日も、バッハのモテット三番をやりました。日曜日の方は、午前中で声が寝てる感じで、みんなで調子がもひとつ~(^◇^;)昨日の練習の方が良かったねぇ、と言ってたんですが、まあ、会場が普通の会議室だったし、伴奏がクラビノーバの古いのだったりで、苦しかったですが、後半はまあまあ良かったかな。
中楯さんがソロで「からたちの花」、三浦くんが「フニクリフニクラ」。「フニクリフニクラ」はみんなでポーズを決めたりして、盛り上げ。「からたちの花」が、ものすごぉくしっとりしていて、ジーン。良かったぁ(*^▽^*)
後半にやったAve verum corpusや、バッハの「主よ、ひとののぞみの喜びよ」はいい感じ~(*^▽^*)でした。
●金曜日の子供たち
ロイトリンゲンに本拠地を置くカペラ・ボーカリースと共演。2013年度プログラムというのをもらいました。
こんな子らです。チビっこいのから、ほとんど青年まで、かなりの人数。一緒にモテット三番とAve verum corpus, Dona nobis pacem(輪唱のヤツ)をやりました。
指揮者はこんな人。若々しく情熱的で、わかりやすい指揮で、歌いやすかったです。
が、リハの時間がおしちゃって、モテットの練習時間がものすごぉく短くなったため、もんのすごぉく早く振られて、私たちも目を回しましたが、チビっ子らが、アワアワしてた。大丈夫かいな? 本番、こんなに早く振るんかいな? と皆でアワアワしてしまいましたが、本番は、普通のテンポでした。ほっ。
(が、やっぱり、Ave verum corpusはちょっと早めであった)
チビっ子らは、英語がダメだったんで、あんまりおしゃべり出来なかったんだけど、リハーサルの時、隣の子が、
Trotz, trotzのところで、曲が始まる前に1人で口ずさんでたので、「好きなの?」と英語で聞いてみたら、思いっきり、コックリしたんで、思わずこちらもニッコリしてしまった。
コラールの中に、「悪魔よ、荒れ狂え」(Lass den Satan wittern)というのがあるんだけど、Satan(ドイツ語だと、ザータン)がむちゃ気合い入って発音されてて、あ~、やっぱり、男の子はこういうの好きだなぁ………で、1人でウケてしまった。
周り中、ドイツ人ネイティブなので、そーか、多少発音出来てなくても、お客さんにはバッチリドイツ語が聞こえるんだ、こりゃ、ラッキー!(*^▽^*)と、いー加減つーか、お気楽なモードでオンステしましたんで、変に気負わず歌えたような気がします。うん、とっても楽しかった。
舞台衣装が良かったな。ブルーの鮮やかな蝶ネクタイが似合ってた。
でも、この日の磐田、三十度近くて、ものすごぉく暑かったんですよー。子供たちも、みんな真っ赤な顔してました。(ちなみに、今時分のロイトリンゲンは、10℃前後らしい)
磐田の後は、広島やら京都やらでコンサートが続くそうなんで、具合悪くなったりしないか、とちょっと心配になりましたが、彼らはホームステイ先で大いに楽しんでたようで(でも、布団に入った瞬間に爆睡してたらしいが)磐田を出発する前には遠州灘も見に行き、大盛り上がりしたそうな。(内陸部の町の子たちなんで、なかなか海を見る機会がないそうです)
で、移動のために駅に行ってからも、駅構内で一曲ドイツ民謡を歌ってくれたとか。
元気だなー。
そー言えば、コンサートの最後に、
「花はさく」を一緒にやりましたが(言葉がつかなくて、ほとんどvocaliseだったけど)、曲が気に入っちゃったらしく、ステージ終わってからも、ステージ裏で大声で歌ってました。
素直な美しい発声で、ホント、歌うのが大好き! っていう声で、一緒にやってて、とても楽しかったです。
●一連のコンサートのご褒美?
みたいな感じで、日曜日のステージで、1人1人に花束をいただきました。衣装をいれた風呂敷包みと、ちょうど色が合ってる!
で、うちで小さなグラスに活けました。
ついでに、先生のお宅の花。
で、今日のウォーキングで見かけたの。
本番終わって、きれいな花に出会えて、なんかもう、それだけで幸せな気分。我ながら、単細胞だなー。ま、いいかー。
こういうスケジュールは滅多にないんですが、
金曜日夜 国際ジョイントコンサートin磐田と銘打ったドイツの少年合唱団capella vocalisとのステージ
土曜日午後 先生宅で練習
日曜日午前 磐田中泉地区福祉協議会定期大会でミニコンサート
という、フルコンサートじゃないけど、ミニコンサート連チャン!
に参加しましたー。
金曜日は会場が竜洋町の公民館で、終演9時10分。車で静岡に戻り、夜中の12時頃帰宅。爆睡。
土曜日は、2時からの練習に間に合うためには、家を11時に出なくちゃいけないんで、早めのお昼でダッシュ。
練習終了後、軽くビール一杯飲まない? というIヶ谷さんの誘惑を振り切って家に帰り、翌日の衣装の準備して、早ねんね。
朝5時起きしてしまい、とりあえず支度して、でも時間が少し余ったので、『寅さんとイエス』っつー本にハマり、一気に三分の一位読んじゃって、慌てて出掛け、9時半集合に駆け込み。
で、10時40分頃に会場入り。一時間強のステージをやり、終了したの、ちょうど昼12時。
中楯さんに車で袋井まで送ってもらい、静岡に出てご飯食べて、静鉄で家に向かった時には、も、半分爆睡状態で~(^◇^;)
夜7時にベッドに入り、朝7時まで寝てました!
で、起きたら、足が筋肉痛。
なもんだから、今日の午後は迎え酒ならぬ迎えウォーキングを少しやりました。(筋肉痛、治った!)
まーその、この体力のない私にしては、頑張った週末でありました。
●バッハ合唱団なので、必ずバッハはやる、と。
今回、金曜日も日曜日も、バッハのモテット三番をやりました。日曜日の方は、午前中で声が寝てる感じで、みんなで調子がもひとつ~(^◇^;)昨日の練習の方が良かったねぇ、と言ってたんですが、まあ、会場が普通の会議室だったし、伴奏がクラビノーバの古いのだったりで、苦しかったですが、後半はまあまあ良かったかな。
中楯さんがソロで「からたちの花」、三浦くんが「フニクリフニクラ」。「フニクリフニクラ」はみんなでポーズを決めたりして、盛り上げ。「からたちの花」が、ものすごぉくしっとりしていて、ジーン。良かったぁ(*^▽^*)
後半にやったAve verum corpusや、バッハの「主よ、ひとののぞみの喜びよ」はいい感じ~(*^▽^*)でした。
●金曜日の子供たち
ロイトリンゲンに本拠地を置くカペラ・ボーカリースと共演。2013年度プログラムというのをもらいました。
こんな子らです。チビっこいのから、ほとんど青年まで、かなりの人数。一緒にモテット三番とAve verum corpus, Dona nobis pacem(輪唱のヤツ)をやりました。
指揮者はこんな人。若々しく情熱的で、わかりやすい指揮で、歌いやすかったです。
が、リハの時間がおしちゃって、モテットの練習時間がものすごぉく短くなったため、もんのすごぉく早く振られて、私たちも目を回しましたが、チビっ子らが、アワアワしてた。大丈夫かいな? 本番、こんなに早く振るんかいな? と皆でアワアワしてしまいましたが、本番は、普通のテンポでした。ほっ。
(が、やっぱり、Ave verum corpusはちょっと早めであった)
チビっ子らは、英語がダメだったんで、あんまりおしゃべり出来なかったんだけど、リハーサルの時、隣の子が、
Trotz, trotzのところで、曲が始まる前に1人で口ずさんでたので、「好きなの?」と英語で聞いてみたら、思いっきり、コックリしたんで、思わずこちらもニッコリしてしまった。
コラールの中に、「悪魔よ、荒れ狂え」(Lass den Satan wittern)というのがあるんだけど、Satan(ドイツ語だと、ザータン)がむちゃ気合い入って発音されてて、あ~、やっぱり、男の子はこういうの好きだなぁ………で、1人でウケてしまった。
周り中、ドイツ人ネイティブなので、そーか、多少発音出来てなくても、お客さんにはバッチリドイツ語が聞こえるんだ、こりゃ、ラッキー!(*^▽^*)と、いー加減つーか、お気楽なモードでオンステしましたんで、変に気負わず歌えたような気がします。うん、とっても楽しかった。
舞台衣装が良かったな。ブルーの鮮やかな蝶ネクタイが似合ってた。
でも、この日の磐田、三十度近くて、ものすごぉく暑かったんですよー。子供たちも、みんな真っ赤な顔してました。(ちなみに、今時分のロイトリンゲンは、10℃前後らしい)
磐田の後は、広島やら京都やらでコンサートが続くそうなんで、具合悪くなったりしないか、とちょっと心配になりましたが、彼らはホームステイ先で大いに楽しんでたようで(でも、布団に入った瞬間に爆睡してたらしいが)磐田を出発する前には遠州灘も見に行き、大盛り上がりしたそうな。(内陸部の町の子たちなんで、なかなか海を見る機会がないそうです)
で、移動のために駅に行ってからも、駅構内で一曲ドイツ民謡を歌ってくれたとか。
元気だなー。
そー言えば、コンサートの最後に、
「花はさく」を一緒にやりましたが(言葉がつかなくて、ほとんどvocaliseだったけど)、曲が気に入っちゃったらしく、ステージ終わってからも、ステージ裏で大声で歌ってました。
素直な美しい発声で、ホント、歌うのが大好き! っていう声で、一緒にやってて、とても楽しかったです。
●一連のコンサートのご褒美?
みたいな感じで、日曜日のステージで、1人1人に花束をいただきました。衣装をいれた風呂敷包みと、ちょうど色が合ってる!
で、うちで小さなグラスに活けました。
ついでに、先生のお宅の花。
で、今日のウォーキングで見かけたの。
本番終わって、きれいな花に出会えて、なんかもう、それだけで幸せな気分。我ながら、単細胞だなー。ま、いいかー。
●日中暑いのと、忙しいのとで
出掛ける時は、お車で~σ(^◇^;)
状態が続いていたので、なんか、
肩が凝ってきた。
で、夕食の後、港までお散歩しました。
日中だと、このところ紫外線がビシバシ強くて、うっかりUVケアしないで出ると、途端に手の甲がチクチク痛くなる。なもんだから、どうも歩くの、億劫になってたんですが。
これではいけない。
というわけで、涼しい夜風を浴びながら、トコトコ行ってまいりました。
●観覧車を観覧した。
エスパルスドリームプラザの観覧車のところ。さらにアップ。
迫力あるー。
しつこく、何枚も撮って、すっかり楽しんでしまった。
●港には、カワイイものがたくさんあったのだ。
最近足を踏み入れてなかったんですが、観覧車の隣から、ドリプラに侵入。お土産物屋さんを冷やかしてみたら、
と、友蔵のエコバッグがっ!
うーん、ちょっと欲しい……かも。
で、さらに店内を物色したところ、
イ、イソギンチャク!
ニモに、ナポレオンフィッシュに、ジュゴン! アザラシのあかちゃんもいる! キャー(≧▽≦)
カエルちゃんに、カッパちゃん!
顔デカ恐竜シリーズぅっ!
葉っぱに飛びつくカエル。
ミニチュアお食事シリーズぅっ!
どれか1つ、小さいモノが欲しかったんだけど、
結局、選べず………。
また今度ゆっくり、見に来たいな~。
Aちゃんを連れて来たら、
狂喜乱舞しそうだなぁ。
●こんなものもあった。
すし屋横丁の方に、こんな
お~み~ご~と~な展示もあった。
お寿司になっても、すぐわかる、オバマさん……σ(^◇^;)
というわけで、ちょこっと気分転換してきました。
あ~、やっぱり港はいいのぅ。
出掛ける時は、お車で~σ(^◇^;)
状態が続いていたので、なんか、
肩が凝ってきた。
で、夕食の後、港までお散歩しました。
日中だと、このところ紫外線がビシバシ強くて、うっかりUVケアしないで出ると、途端に手の甲がチクチク痛くなる。なもんだから、どうも歩くの、億劫になってたんですが。
これではいけない。
というわけで、涼しい夜風を浴びながら、トコトコ行ってまいりました。
●観覧車を観覧した。
エスパルスドリームプラザの観覧車のところ。さらにアップ。
迫力あるー。
しつこく、何枚も撮って、すっかり楽しんでしまった。
●港には、カワイイものがたくさんあったのだ。
最近足を踏み入れてなかったんですが、観覧車の隣から、ドリプラに侵入。お土産物屋さんを冷やかしてみたら、
と、友蔵のエコバッグがっ!
うーん、ちょっと欲しい……かも。
で、さらに店内を物色したところ、
イ、イソギンチャク!
ニモに、ナポレオンフィッシュに、ジュゴン! アザラシのあかちゃんもいる! キャー(≧▽≦)
カエルちゃんに、カッパちゃん!
顔デカ恐竜シリーズぅっ!
葉っぱに飛びつくカエル。
ミニチュアお食事シリーズぅっ!
どれか1つ、小さいモノが欲しかったんだけど、
結局、選べず………。
また今度ゆっくり、見に来たいな~。
Aちゃんを連れて来たら、
狂喜乱舞しそうだなぁ。
●こんなものもあった。
すし屋横丁の方に、こんな
お~み~ご~と~な展示もあった。
お寿司になっても、すぐわかる、オバマさん……σ(^◇^;)
というわけで、ちょこっと気分転換してきました。
あ~、やっぱり港はいいのぅ。
●ここんところ お別れが続く
4月は長野の伯母を見送ったばかり。
5月は、相方がずっと親しくさせていただいた恩師が亡くなった。
親しい友人でご家族を亡くされた方もあり、
なぜか別れが続くシーズンになっている。
出会いがあれば、別れもあるものだけど、
年をとるということは、つくづく
別れを重ねることだ、と思うことがある。
その時々に、後悔や嘆きや、一人では抱えきれない
いろいろなものを、誰もが抱え込んで年を重ねていく。
生きていれば、やり直しがきくこともある。
けれど、亡くなってしまった人には、
もうやり直しをしてもらうことができない。
ああすればよかった、
こうすればよかった、
と必ず思うものだけれど、
それをやり直す機会は、もうない。
だからこそ、人は
亡くした誰かをいとおしみ、
いつまでも忘れることがない。
心の中でいとおしく反芻しつづけることでしか
人は前に進むことができない。
14日に、親しいうちのおじさんが亡くなった。
子供の頃から可愛がってもらい、
最近は畑でとれた
輝くばかりの野菜を毎年たくさんもらっていた。
ここの家は、母の小学校の同級生のうちで、
ご夫婦は同級生どうしで結婚している。
おじさんは、80歳だった。
ということは、亡くなった母が今生きていたら
80になっているのだ。
不思議な感慨を覚えた。
80になっている母を想像するのが難しいのだ。
母の姿は、亡くなった時のままで、私の中に固定されていて、
それ以上年をとることがない。
それが幸福なことなのかどうか、
私にはわからないが、
あと二年すると、母が亡くなった年になる。
私は、母が到達したところまでに、
その年で追いつけるのだろうか。
●このご一家とは不思議な御縁で
親族同様のおつきあいをしてきた。
おばさん(とは普段呼ばないが)が
長い間、うちに勤めてくれていたため、
ほとんど家族同様なのだ。
小学生時分は、ほとんど家事をやってくれていたので、
私はおばさんの料理で大きくなったようなものだ。
一人息子がいて、こちらは兄貴分みたいなもので、
父の葬儀の時も、「大丈夫?」と駆けつけてくれた。
税理士なので、相続税の計算でわからなくなると、
「兄貴、助けて~」
で来てもらい、さんざんこき使ってしまった。
子供の頃は、うちの母が私たち二人を連れて
あちこち旅行に出かけてくれた。
兄弟のようにして過ごした時間が懐かしい。
平安の昔だったら、乳母子(めのとご)関係かもしれないね。
亡くなったおじさんは、タクシーの運転手さんを昔やっていた。
普段は忙しくて、家に遊びに行っても、なかなか
おじさんには会えなかったが、一度だけ
街の中でおじさんに会った。
それはまだ私が15,16歳の頃だと思う。
うちに新しく勤めた若い人(その頃うちは眼科医院で、
看護婦さんたちは住み込みの人もいた)を連れて
買い物か何かに行ったんだと思う。
で、二人して帰り道がわからなくなってしまった。
要するに、迷子!
荷物は多いし、道は不確かだし。
で、ままよ、でタクシーをつかまえた。
まだ子供だったから、一人でタクシーに乗るなんて
贅沢は考えたこともなかったが、他に思いつかなかった。
タクシーに乗ったら、
「あれ~、○ちゃんじゃないか。どうしたの~?」
と運転手さんが後ろを振り返ってニッコリ。
おじさんが人懐こい顔で笑ってる。
途端にほ~っとした。
気恥ずかしかったけど、うちまで送ってもらった。
大人になって、母を亡くして、
一人っ子だったので実家に帰り、生活しはじめた。
おじさんは退職して悠悠自適に、畑仕事を始めていた。
毎年それはもう、輝くばかりの、大粒のトマトを
たくさんくれた。
それは、夏の息吹そのままで、
こんなに美味しいトマトは、どこを探してもなかった。
たまねぎやじゃがいもも、その時々に採れるものを、
毎年たくさんいただいた。
でも、私の中では、やっぱりトマトが最高で、
毎年楽しみに待っていた。
その時期になると、スーパーで美味しそうなのを見かけても、
「いやいや、そろそろおじさんのトマトが
もらえるはず!」
と買わずに帰ったりした。
あんまり好きなので、絵に描いておじさんに
贈ったりしたこともあった。
私にとっては、おじさんのトマトは、
おじさんの人懐こい笑顔と同じ。
大好きだった。
今年はもう、夏が来ても
あのトマトには会えない。
そうやって、年々、
何かが変わっていく。
変えたくなくても、
変わってしまう。
後戻りのできないことの
なんと 多いことか。
思い出の中で、
鮮やかな赤だけが
蘇る。
4月は長野の伯母を見送ったばかり。
5月は、相方がずっと親しくさせていただいた恩師が亡くなった。
親しい友人でご家族を亡くされた方もあり、
なぜか別れが続くシーズンになっている。
出会いがあれば、別れもあるものだけど、
年をとるということは、つくづく
別れを重ねることだ、と思うことがある。
その時々に、後悔や嘆きや、一人では抱えきれない
いろいろなものを、誰もが抱え込んで年を重ねていく。
生きていれば、やり直しがきくこともある。
けれど、亡くなってしまった人には、
もうやり直しをしてもらうことができない。
ああすればよかった、
こうすればよかった、
と必ず思うものだけれど、
それをやり直す機会は、もうない。
だからこそ、人は
亡くした誰かをいとおしみ、
いつまでも忘れることがない。
心の中でいとおしく反芻しつづけることでしか
人は前に進むことができない。
14日に、親しいうちのおじさんが亡くなった。
子供の頃から可愛がってもらい、
最近は畑でとれた
輝くばかりの野菜を毎年たくさんもらっていた。
ここの家は、母の小学校の同級生のうちで、
ご夫婦は同級生どうしで結婚している。
おじさんは、80歳だった。
ということは、亡くなった母が今生きていたら
80になっているのだ。
不思議な感慨を覚えた。
80になっている母を想像するのが難しいのだ。
母の姿は、亡くなった時のままで、私の中に固定されていて、
それ以上年をとることがない。
それが幸福なことなのかどうか、
私にはわからないが、
あと二年すると、母が亡くなった年になる。
私は、母が到達したところまでに、
その年で追いつけるのだろうか。
●このご一家とは不思議な御縁で
親族同様のおつきあいをしてきた。
おばさん(とは普段呼ばないが)が
長い間、うちに勤めてくれていたため、
ほとんど家族同様なのだ。
小学生時分は、ほとんど家事をやってくれていたので、
私はおばさんの料理で大きくなったようなものだ。
一人息子がいて、こちらは兄貴分みたいなもので、
父の葬儀の時も、「大丈夫?」と駆けつけてくれた。
税理士なので、相続税の計算でわからなくなると、
「兄貴、助けて~」
で来てもらい、さんざんこき使ってしまった。
子供の頃は、うちの母が私たち二人を連れて
あちこち旅行に出かけてくれた。
兄弟のようにして過ごした時間が懐かしい。
平安の昔だったら、乳母子(めのとご)関係かもしれないね。
亡くなったおじさんは、タクシーの運転手さんを昔やっていた。
普段は忙しくて、家に遊びに行っても、なかなか
おじさんには会えなかったが、一度だけ
街の中でおじさんに会った。
それはまだ私が15,16歳の頃だと思う。
うちに新しく勤めた若い人(その頃うちは眼科医院で、
看護婦さんたちは住み込みの人もいた)を連れて
買い物か何かに行ったんだと思う。
で、二人して帰り道がわからなくなってしまった。
要するに、迷子!
荷物は多いし、道は不確かだし。
で、ままよ、でタクシーをつかまえた。
まだ子供だったから、一人でタクシーに乗るなんて
贅沢は考えたこともなかったが、他に思いつかなかった。
タクシーに乗ったら、
「あれ~、○ちゃんじゃないか。どうしたの~?」
と運転手さんが後ろを振り返ってニッコリ。
おじさんが人懐こい顔で笑ってる。
途端にほ~っとした。
気恥ずかしかったけど、うちまで送ってもらった。
大人になって、母を亡くして、
一人っ子だったので実家に帰り、生活しはじめた。
おじさんは退職して悠悠自適に、畑仕事を始めていた。
毎年それはもう、輝くばかりの、大粒のトマトを
たくさんくれた。
それは、夏の息吹そのままで、
こんなに美味しいトマトは、どこを探してもなかった。
たまねぎやじゃがいもも、その時々に採れるものを、
毎年たくさんいただいた。
でも、私の中では、やっぱりトマトが最高で、
毎年楽しみに待っていた。
その時期になると、スーパーで美味しそうなのを見かけても、
「いやいや、そろそろおじさんのトマトが
もらえるはず!」
と買わずに帰ったりした。
あんまり好きなので、絵に描いておじさんに
贈ったりしたこともあった。
私にとっては、おじさんのトマトは、
おじさんの人懐こい笑顔と同じ。
大好きだった。
今年はもう、夏が来ても
あのトマトには会えない。
そうやって、年々、
何かが変わっていく。
変えたくなくても、
変わってしまう。
後戻りのできないことの
なんと 多いことか。
思い出の中で、
鮮やかな赤だけが
蘇る。
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