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次から次へとランダム読書は続く・・・状態
●アイデアを練りながら、なんとなく気に入った本を読む
・・・みたいな状態が続いているんですが、書きたいものが少しずつ
形になっていく段階って、
不思議なことに、「なんとなく、今、コレが
読みたい!」
と本をぺらぺらめくっていくと、ズガーン!
欲しかった映像的イメージとか、言語的イメージが火花を散らして
くれる! 状態に入っちゃったりする。
なんででしょうねー。
その時々で、読みたいモノは漫画であったり、エッセイであったり、
科学読本系であったり、哲学的随想・・・だったり、ともかくあんまり
脈絡はないのです。
なんか、野生のカンだけで本に走っているのですが、
たいていそれらの本の中で、「うん、これこれ!」
みたいなモノに出会うっつーか、出くわす。
これが、なんともうれしい今日この頃なのでした。
●『寅さんとイエス』
という本を昨日読み終えたところです。
タイトルからして、何じゃ、こりゃ~~!
なんですが、これが、とんでもなく
おもしろいエッセイ集だった。
そもそも、これを読もう、と思った発端はですね。
これをお書きになった著者の方を存じ上げているから。
母校の教授で、カトリックの神父さんで、
在学中に講義を受けたんではありませんが、
研究室でお話したり、先生の講演会に伺ったりして、
そのお人柄がだぁい好き♪♪♪
になった方だったこと。
で、うちの母校では、毎年各地の同窓会に、
母校の教授をお招きして、一緒にご飯を食べた後は、
ちゃっかり短い講義をしてもらっちゃう・・・という
ミョーな、つーか、他の大学ではこーゆーの、
ないだろーな、の催しがありまして。
で、今年の静岡支部の同窓会には、
『寅さんとイエス』の著者米田彰男神父さまを
お呼びしちゃうことになっている。
この同窓会お知らせ通知で、最近先生がお出しになった
本は、これですよ~、というお知らせがあった。
で、米田先生ファンである私は、
早速ゲットして、大喜びして読んでおったのでした。
●寅さんから、ピカートへ、北森へ
フーテンの寅さんと、イエスって、
実は似ている、というお話がこの本のテーマ。
何が似ているかってぇと、
どちらも、社会の既成概念を打ち砕くキャラクターであること。
社会的には敗者かもしれない立場なんだけど、
だからって打ちひしがれてない。
それどころか、どんな人にも分け隔てなく接し、
出会う人たちの心の花園にほっと明かりをともしてくれる。
お金も権力もないけど、出会う人一人一人の気持ちを
大切にしてくれる。
だからこそ、寅さんに出会った人も、
イエスに出会った人も、その春風のような存在を
忘れることができない・・・。
とまあ、そういうお話。
寅さん映画を詳しく引用しながら、イエスの話をしてくれる
楽しいエッセイ風の一冊です。
帯のところに、
「人間と世界を温かく包み込む『聖なる無用性』の根源へ」
と書いてありますが、これ、大事。
どういうことなのか、というと、現代生活の中では特に、
物や人は、「役に立つかどうか」「便利かどうか」
そういった基準だけで価値判断されることが多い。
効率化優先社会では、寅さんやイエスのような、
いわば「はみだし者」は「役立たず」「無用の人」
でしかないのです。
けど、その「無用性」こそが、実は人間の根幹に
関わる大切なことなんじゃないの?
●本文の中にも引用されていますが
この「聖なる無用性」という話、実は
マックス・ピカートという人の『沈黙の世界』
の中で語られています。
この本は、言葉と沈黙について、
音楽と沈黙についてなど、
さまざまな角度から「沈黙」って一体何?
なぜそれが存在するの?
それは、私たちにとって大切なことなの?
を哲学的に考える・・・という一冊。
たとえば無用性については、こんな具合です。
「沈黙は今日では『利用価値なき』唯一の現象である。沈黙は、現代の
効用価値の世界にすこしも適合するところがない。沈黙はただ存在している
だけである。それ以外の目的はなにも持っていないように思われる。だから、
人々はそれを搾取することが出来ないのである。
一方、その他のあらゆる偉大なる現象は、効用の世界によって併呑されて
しまった。天と地とのあいだの空間でさえ、飛行機がそこを航行するために利用
される一種の明るい竪穴のようなものでしかない。水や火など、これらの四大
原素も効用価値の世界のなかへ奪い込まれていて、それらがこの効用世界の
一部をなすかぎりにおいてのみ意識されるにすぎない。それらはもはや独自の
存在を持ってはいないのである。」
要するに、沈黙そのものは、現代社会では、全く何の役にも立たないものであり、
人は、沈黙に価値を認めることはあまりありません。どころか、それが存在する
と意識することも、まれ。
じゃあ、沈黙はなくてOKのものなのか?
というと、そうじゃないんだよ、沈黙があるからこそ、
言葉はより深く心に響き、音楽はより心に沁みるんだよ、
見えないし、意識もされないものだけど、そこにこそ
人間にとって大切なものがあるんだよ・・・
と訴えている本なのです。
この『沈黙の世界』という本が、米田先生の著書の中に
引用されているのに、実はものすごく感激したのです。
●若い頃には読めなかった本
『沈黙の世界』、たぶん19歳くらいの頃に、
タイトルに惹かれて買ったんだと思います。
ですが、その当時はどうしても理解できず、
一行読んでは首をひねり、一体何を言いたいのか、わからない、
ついていけない・・・で、結局ほとんど読めなかった。
それでも、何となく捨てられず、ずっと本棚に
置いていました。学生時代に住んでいた部屋を
引き払い、実家に荷物を運んだ時も、やっぱり
何となく捨てられず、持ってきました。
実に30年以上経った今になって、
やっとしっかり読み出せるようになりました。
ともかく一行一行が、含蓄に富み、
どこもかしこも、読み飛ばすことが出来ない。
それに太刀打ちできず、タジタジとなって
若い頃は読めなかったのでしょう。
今やっと読みだして、
一行一行が染み透るのを感じています。
●年月を過ごすことで
やっと何とか、見えてきたものがあるのかなぁ、と思います。
翻ってみると、若い頃は、ほんとに何も考えられてなかったんだなぁ、
と思います。ああ、穴があったら入りたい。
若い頃も、毎日が新しい経験に充たされていたはずなんだけど、
それらから学び取ることが、まったくできていなかったんだよなぁ。
どうも、成長が遅くて遅くて、
我ながら嫌になりますが、
今これらの本に出会い直すことができて
良かったのかもしれませんね。
米田先生の引用されている本は多岐にわたり、
和辻哲郎の「風土」とか、
北森嘉蔵の「神の痛みの神学」とか、
あるいはシモーヌ・ヴェイユだとか、
完璧に理解が及んだ、とはとても言い難いのだけど、
昔から興味をもっていたものが続々現れる。
もちろん、私の神様・遠藤周作の「沈黙」も出てきます。
人の中にある沈黙のダイナミズム、
あるいは神の沈黙のダイナミズム、
そういったものに思いを馳せています。
●で、他のランダム読書のターゲットは
みょーな形態のいきものを紹介するシリーズ
『へんないきもの』(早川いくを著・寺西晃絵)
江戸時代の生活をイラストで解説した
『図解江戸の暮らし事典』(学研 歴史群像シリーズ)
なんてのも見ています。
が、その一方で、『ダ・ヴィンチ・コード』で有名な
ダン・ブラウンの新作"Inferno"もおもしろく読んでたりします。
ああ、あっちこっち乱読。
"Inferno"はこの5月に出たばかりなんで、まだまだ
邦訳は出ないんじゃないかな~と思いますが、
内容は、ダンテの神曲地獄篇と、フィレンツェとヴェニスと
黒死病・・・がモチーフで、前半はフィレンツェが舞台、
後半はヴェニスが舞台で、もーそれだけで、
嬉しくってしょーがない。
ダンテのデスマスクが出てきたり、
ポンテ・ベッキオやら何やら、
去年イタリア旅行で自分が実際に
歩いたところがやたらに出てくるので、
それだけで大いに盛り上がり。
ちなみにポンテ・ベッキオ付近を
散策した時には、こっそり小声で
「わたしのお父さん」(歌詞の中にポンテ・ベッキオが出てくる)
を歌うのを忘れませんでした~♪
●で、乱読・並読をしながら
いろいろアイデアを練って、あれかな、これかな、とか
書いています。
だいぶ前から温めていたアイデアが一本あり、
それを今年は何とか形にしてしまおう!
というのが目標であります。
アイデアを練っていくと、ああしよう、こうしよう、
あ、こっちもおもしろい、おお、この資料は使える、
え、こっちもいいじゃん!
といろいろ自分の頭の中だけで妄想が広がり、
これはこれで楽しいのですが、
いざ、物語に落とし込んでいく時に、
考えたり、調べたりしたことの全てを
ぶち込むわけにはいかず、必ず剪定作業が必要になる。
調べたり、考えたり、練ったりしたことは
みんないとしくて、それらの中で取捨選択するの、
ちょっとつらい時もある。
んだけど、一冊の完成度を考え、
えいや、で大ナタふるって、
要らないものを見極め、テーマを絞り込む。
これが楽しいって言えば楽しいし、
苦しいって言えば苦しい。
けどまあ、ここで使わなかったことは、
また別のところで使えるかもしれない、
書く機会はないかもしれないけど、
ここで悩んだことは、きっとどこかで、
何かの時に自分の役に立つものかもしれない。
いや、役には立たないかもしれないけど、
それに出会ったこと、それを考えた時間こそが、
心の財産になっていくのかもしれない。
そんなことを思ったりします。
このネタも、あのネタも好きだし、
おもしろいと思うんだけど、
だからと言って、全部をぶち込んでも仕方がない。
結局、今、自分が一番書きたいものは何か?
を基準にして、ナタをふるう。
ナタをふるうために、
自分の中にまず、栄養を入れる。
取り入れた栄養の中から、
これ、というものが出てくる。
そーいうことを野生のカンで、
今、やってるらしい。
米田先生の本や、ピカートの本の栄養を
ともかく詰め込んで、なんとか咀嚼したい。
そこから今度は
どんな形で出てくるのか。
どんな形で出せるのか。
ワクワクと同時に、
自分に出来るのか? とドキドキする日が続いている。
・・・みたいな状態が続いているんですが、書きたいものが少しずつ
形になっていく段階って、
不思議なことに、「なんとなく、今、コレが
読みたい!」
と本をぺらぺらめくっていくと、ズガーン!
欲しかった映像的イメージとか、言語的イメージが火花を散らして
くれる! 状態に入っちゃったりする。
なんででしょうねー。
その時々で、読みたいモノは漫画であったり、エッセイであったり、
科学読本系であったり、哲学的随想・・・だったり、ともかくあんまり
脈絡はないのです。
なんか、野生のカンだけで本に走っているのですが、
たいていそれらの本の中で、「うん、これこれ!」
みたいなモノに出会うっつーか、出くわす。
これが、なんともうれしい今日この頃なのでした。
●『寅さんとイエス』
という本を昨日読み終えたところです。
タイトルからして、何じゃ、こりゃ~~!
なんですが、これが、とんでもなく
おもしろいエッセイ集だった。
そもそも、これを読もう、と思った発端はですね。
これをお書きになった著者の方を存じ上げているから。
母校の教授で、カトリックの神父さんで、
在学中に講義を受けたんではありませんが、
研究室でお話したり、先生の講演会に伺ったりして、
そのお人柄がだぁい好き♪♪♪
になった方だったこと。
で、うちの母校では、毎年各地の同窓会に、
母校の教授をお招きして、一緒にご飯を食べた後は、
ちゃっかり短い講義をしてもらっちゃう・・・という
ミョーな、つーか、他の大学ではこーゆーの、
ないだろーな、の催しがありまして。
で、今年の静岡支部の同窓会には、
『寅さんとイエス』の著者米田彰男神父さまを
お呼びしちゃうことになっている。
この同窓会お知らせ通知で、最近先生がお出しになった
本は、これですよ~、というお知らせがあった。
で、米田先生ファンである私は、
早速ゲットして、大喜びして読んでおったのでした。
●寅さんから、ピカートへ、北森へ
フーテンの寅さんと、イエスって、
実は似ている、というお話がこの本のテーマ。
何が似ているかってぇと、
どちらも、社会の既成概念を打ち砕くキャラクターであること。
社会的には敗者かもしれない立場なんだけど、
だからって打ちひしがれてない。
それどころか、どんな人にも分け隔てなく接し、
出会う人たちの心の花園にほっと明かりをともしてくれる。
お金も権力もないけど、出会う人一人一人の気持ちを
大切にしてくれる。
だからこそ、寅さんに出会った人も、
イエスに出会った人も、その春風のような存在を
忘れることができない・・・。
とまあ、そういうお話。
寅さん映画を詳しく引用しながら、イエスの話をしてくれる
楽しいエッセイ風の一冊です。
帯のところに、
「人間と世界を温かく包み込む『聖なる無用性』の根源へ」
と書いてありますが、これ、大事。
どういうことなのか、というと、現代生活の中では特に、
物や人は、「役に立つかどうか」「便利かどうか」
そういった基準だけで価値判断されることが多い。
効率化優先社会では、寅さんやイエスのような、
いわば「はみだし者」は「役立たず」「無用の人」
でしかないのです。
けど、その「無用性」こそが、実は人間の根幹に
関わる大切なことなんじゃないの?
●本文の中にも引用されていますが
この「聖なる無用性」という話、実は
マックス・ピカートという人の『沈黙の世界』
の中で語られています。
この本は、言葉と沈黙について、
音楽と沈黙についてなど、
さまざまな角度から「沈黙」って一体何?
なぜそれが存在するの?
それは、私たちにとって大切なことなの?
を哲学的に考える・・・という一冊。
たとえば無用性については、こんな具合です。
「沈黙は今日では『利用価値なき』唯一の現象である。沈黙は、現代の
効用価値の世界にすこしも適合するところがない。沈黙はただ存在している
だけである。それ以外の目的はなにも持っていないように思われる。だから、
人々はそれを搾取することが出来ないのである。
一方、その他のあらゆる偉大なる現象は、効用の世界によって併呑されて
しまった。天と地とのあいだの空間でさえ、飛行機がそこを航行するために利用
される一種の明るい竪穴のようなものでしかない。水や火など、これらの四大
原素も効用価値の世界のなかへ奪い込まれていて、それらがこの効用世界の
一部をなすかぎりにおいてのみ意識されるにすぎない。それらはもはや独自の
存在を持ってはいないのである。」
要するに、沈黙そのものは、現代社会では、全く何の役にも立たないものであり、
人は、沈黙に価値を認めることはあまりありません。どころか、それが存在する
と意識することも、まれ。
じゃあ、沈黙はなくてOKのものなのか?
というと、そうじゃないんだよ、沈黙があるからこそ、
言葉はより深く心に響き、音楽はより心に沁みるんだよ、
見えないし、意識もされないものだけど、そこにこそ
人間にとって大切なものがあるんだよ・・・
と訴えている本なのです。
この『沈黙の世界』という本が、米田先生の著書の中に
引用されているのに、実はものすごく感激したのです。
●若い頃には読めなかった本
『沈黙の世界』、たぶん19歳くらいの頃に、
タイトルに惹かれて買ったんだと思います。
ですが、その当時はどうしても理解できず、
一行読んでは首をひねり、一体何を言いたいのか、わからない、
ついていけない・・・で、結局ほとんど読めなかった。
それでも、何となく捨てられず、ずっと本棚に
置いていました。学生時代に住んでいた部屋を
引き払い、実家に荷物を運んだ時も、やっぱり
何となく捨てられず、持ってきました。
実に30年以上経った今になって、
やっとしっかり読み出せるようになりました。
ともかく一行一行が、含蓄に富み、
どこもかしこも、読み飛ばすことが出来ない。
それに太刀打ちできず、タジタジとなって
若い頃は読めなかったのでしょう。
今やっと読みだして、
一行一行が染み透るのを感じています。
●年月を過ごすことで
やっと何とか、見えてきたものがあるのかなぁ、と思います。
翻ってみると、若い頃は、ほんとに何も考えられてなかったんだなぁ、
と思います。ああ、穴があったら入りたい。
若い頃も、毎日が新しい経験に充たされていたはずなんだけど、
それらから学び取ることが、まったくできていなかったんだよなぁ。
どうも、成長が遅くて遅くて、
我ながら嫌になりますが、
今これらの本に出会い直すことができて
良かったのかもしれませんね。
米田先生の引用されている本は多岐にわたり、
和辻哲郎の「風土」とか、
北森嘉蔵の「神の痛みの神学」とか、
あるいはシモーヌ・ヴェイユだとか、
完璧に理解が及んだ、とはとても言い難いのだけど、
昔から興味をもっていたものが続々現れる。
もちろん、私の神様・遠藤周作の「沈黙」も出てきます。
人の中にある沈黙のダイナミズム、
あるいは神の沈黙のダイナミズム、
そういったものに思いを馳せています。
●で、他のランダム読書のターゲットは
みょーな形態のいきものを紹介するシリーズ
『へんないきもの』(早川いくを著・寺西晃絵)
江戸時代の生活をイラストで解説した
『図解江戸の暮らし事典』(学研 歴史群像シリーズ)
なんてのも見ています。
が、その一方で、『ダ・ヴィンチ・コード』で有名な
ダン・ブラウンの新作"Inferno"もおもしろく読んでたりします。
ああ、あっちこっち乱読。
"Inferno"はこの5月に出たばかりなんで、まだまだ
邦訳は出ないんじゃないかな~と思いますが、
内容は、ダンテの神曲地獄篇と、フィレンツェとヴェニスと
黒死病・・・がモチーフで、前半はフィレンツェが舞台、
後半はヴェニスが舞台で、もーそれだけで、
嬉しくってしょーがない。
ダンテのデスマスクが出てきたり、
ポンテ・ベッキオやら何やら、
去年イタリア旅行で自分が実際に
歩いたところがやたらに出てくるので、
それだけで大いに盛り上がり。
ちなみにポンテ・ベッキオ付近を
散策した時には、こっそり小声で
「わたしのお父さん」(歌詞の中にポンテ・ベッキオが出てくる)
を歌うのを忘れませんでした~♪
●で、乱読・並読をしながら
いろいろアイデアを練って、あれかな、これかな、とか
書いています。
だいぶ前から温めていたアイデアが一本あり、
それを今年は何とか形にしてしまおう!
というのが目標であります。
アイデアを練っていくと、ああしよう、こうしよう、
あ、こっちもおもしろい、おお、この資料は使える、
え、こっちもいいじゃん!
といろいろ自分の頭の中だけで妄想が広がり、
これはこれで楽しいのですが、
いざ、物語に落とし込んでいく時に、
考えたり、調べたりしたことの全てを
ぶち込むわけにはいかず、必ず剪定作業が必要になる。
調べたり、考えたり、練ったりしたことは
みんないとしくて、それらの中で取捨選択するの、
ちょっとつらい時もある。
んだけど、一冊の完成度を考え、
えいや、で大ナタふるって、
要らないものを見極め、テーマを絞り込む。
これが楽しいって言えば楽しいし、
苦しいって言えば苦しい。
けどまあ、ここで使わなかったことは、
また別のところで使えるかもしれない、
書く機会はないかもしれないけど、
ここで悩んだことは、きっとどこかで、
何かの時に自分の役に立つものかもしれない。
いや、役には立たないかもしれないけど、
それに出会ったこと、それを考えた時間こそが、
心の財産になっていくのかもしれない。
そんなことを思ったりします。
このネタも、あのネタも好きだし、
おもしろいと思うんだけど、
だからと言って、全部をぶち込んでも仕方がない。
結局、今、自分が一番書きたいものは何か?
を基準にして、ナタをふるう。
ナタをふるうために、
自分の中にまず、栄養を入れる。
取り入れた栄養の中から、
これ、というものが出てくる。
そーいうことを野生のカンで、
今、やってるらしい。
米田先生の本や、ピカートの本の栄養を
ともかく詰め込んで、なんとか咀嚼したい。
そこから今度は
どんな形で出てくるのか。
どんな形で出せるのか。
ワクワクと同時に、
自分に出来るのか? とドキドキする日が続いている。
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