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「おらしょ」を歌うために
●「おらしょ」の譜面の最後に
参考文献がいろいろ載っていたんですが、
そのどれもうちにはなくって・・・。
で、自分にとっては隠れ切支丹のバイブル
遠藤周作に回帰しています。
『沈黙』とか『イエスの生涯』とかに戻っても
いいんですが、
『沈黙』を書く契機となった最初の
長崎への旅から始まる紀行文・随筆集
『切支丹の里』にどっぷりはまってみることにしました。
中公文庫に入っているのですが、
初版が昭和49年で、
私の持っているのが7刷で
昭和55年。
アマゾンでチェックしたところ、
新刊本としては扱われておらず、
古書扱い。ふつーの古書としては安くて、1円から、
コレクター商品としては、1,700円から、だそーです。
このヘンの仕組み、よくわかりません。
短いものなので、「おらしょ」本番前までに
読み込んでみるかなぁ・・・と引っ張り出して
みました。案の定、ハマっています。
「哀しげに摩滅し、足指の痕を青黒く(黒+幼の古い字で
書いてある)残した一枚の踏絵を見た感動から、
キリシタン時代の殉教者、転んだ宣教師、隠れキリシタンの
たどった道を、長崎、島原の僻村までたずね歩き、弱きものを
裁く父の宗教が優しく赦す母の宗教へと、日本の風土と
歴史の中で変貌してゆく様を、真摯な取材と文献の中から
考察してゆく。傑作『沈黙』や『イエスの生涯』を貫く著者の
思想が展開する独自の紀行・作品集。」
という解説が裏表紙に付いています。
殉教をした者、殉教の道を選ばず、転んだ者。
その一人一人の心の襞を追い、
何者にも屈せぬ強い意志で命を捨てたように
見える者、心弱さのゆえに裏切り者となり、
歴史の中に沈黙とともに埋没していった者。
強者があり、弱者がある殉教の歴史。
しかし、その一人一人の心が
単純に真っ白であったり、真っ黒であったわけではないはずだ。
揺らぎ、傷つき、時に光を求め、あるいは光に背を向け、
ためらいと悩みと、決意とあきらめと、
それらの錯綜の中に、切支丹として生きることの現実があった。
カトリックの信者である遠藤にとっては、
迫害にあった時、自らの身を犠牲にして
信仰を守りきれるのか?
という命題は、非常に身近で、大きなものだったのだと思う。
迫害の時代にあったなら、
自分もまた堪えきれずに転んだであろう。
自分は弱き者、転んだ者、また隠れた者に近い。
そんな思いが、『沈黙』という作品に
結実したのだと思う。
私もまた、長年キリスト教を身近に感じ続けながら、
未だに自らその世界に入ることにためらい続けている。
果たして自分は信仰者であると声高らかに宣言できる
ほどの者なのか。
自らの業を自覚すればするほど、入ってはいけないような
気がずっとしていた。
最近は、次第に自分の中の
規制が緩んできてきるのか、
真っ白でなくても、入っていいか、と
思ったりもするようになった。
ただし、それは、死んで後、救われたいから、
というわけでもないように思う。
未だに私は、自分が何をキリストに求めているのか、
よくわかっていない。
そういうわけで、まだしばらくは
教会の周りでうろうろしているだけの状態を
続けそうな私である。
どうも固い話になっちゃったな。
ま、たまにはいいか。
参考文献がいろいろ載っていたんですが、
そのどれもうちにはなくって・・・。
で、自分にとっては隠れ切支丹のバイブル
遠藤周作に回帰しています。
『沈黙』とか『イエスの生涯』とかに戻っても
いいんですが、
『沈黙』を書く契機となった最初の
長崎への旅から始まる紀行文・随筆集
『切支丹の里』にどっぷりはまってみることにしました。
中公文庫に入っているのですが、
初版が昭和49年で、
私の持っているのが7刷で
昭和55年。
アマゾンでチェックしたところ、
新刊本としては扱われておらず、
古書扱い。ふつーの古書としては安くて、1円から、
コレクター商品としては、1,700円から、だそーです。
このヘンの仕組み、よくわかりません。
短いものなので、「おらしょ」本番前までに
読み込んでみるかなぁ・・・と引っ張り出して
みました。案の定、ハマっています。
「哀しげに摩滅し、足指の痕を青黒く(黒+幼の古い字で
書いてある)残した一枚の踏絵を見た感動から、
キリシタン時代の殉教者、転んだ宣教師、隠れキリシタンの
たどった道を、長崎、島原の僻村までたずね歩き、弱きものを
裁く父の宗教が優しく赦す母の宗教へと、日本の風土と
歴史の中で変貌してゆく様を、真摯な取材と文献の中から
考察してゆく。傑作『沈黙』や『イエスの生涯』を貫く著者の
思想が展開する独自の紀行・作品集。」
という解説が裏表紙に付いています。
殉教をした者、殉教の道を選ばず、転んだ者。
その一人一人の心の襞を追い、
何者にも屈せぬ強い意志で命を捨てたように
見える者、心弱さのゆえに裏切り者となり、
歴史の中に沈黙とともに埋没していった者。
強者があり、弱者がある殉教の歴史。
しかし、その一人一人の心が
単純に真っ白であったり、真っ黒であったわけではないはずだ。
揺らぎ、傷つき、時に光を求め、あるいは光に背を向け、
ためらいと悩みと、決意とあきらめと、
それらの錯綜の中に、切支丹として生きることの現実があった。
カトリックの信者である遠藤にとっては、
迫害にあった時、自らの身を犠牲にして
信仰を守りきれるのか?
という命題は、非常に身近で、大きなものだったのだと思う。
迫害の時代にあったなら、
自分もまた堪えきれずに転んだであろう。
自分は弱き者、転んだ者、また隠れた者に近い。
そんな思いが、『沈黙』という作品に
結実したのだと思う。
私もまた、長年キリスト教を身近に感じ続けながら、
未だに自らその世界に入ることにためらい続けている。
果たして自分は信仰者であると声高らかに宣言できる
ほどの者なのか。
自らの業を自覚すればするほど、入ってはいけないような
気がずっとしていた。
最近は、次第に自分の中の
規制が緩んできてきるのか、
真っ白でなくても、入っていいか、と
思ったりもするようになった。
ただし、それは、死んで後、救われたいから、
というわけでもないように思う。
未だに私は、自分が何をキリストに求めているのか、
よくわかっていない。
そういうわけで、まだしばらくは
教会の周りでうろうろしているだけの状態を
続けそうな私である。
どうも固い話になっちゃったな。
ま、たまにはいいか。
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